1 梵天とは
角間川の梵天は、3mほどの心棒に、円筒形状の竹籠を取り付け、その籠を3枚の下がり布で覆う。籠の上部は、さらに布をかぶせる場合もあり、この布はホウヅキと呼ぶ。籠には紅白の鉢巻を取り付け、廻した注連縄から紙垂を垂らす。心棒の先には趣向を凝らした頭飾りを取り付ける。鈴や三角のお守りなどで飾りつける。
参考に、柳田国男監修『民俗学辞典』の「ぼんでん」の項には以下のように記されている。
「普通に梵天と書き、大きな御幣のこと。東北地方に盛んに用いられるが、大きな幣串に厚い和紙をとりつけたこの形式は、御幣の古態として珍しからぬものである。祭礼に際して、頭屋の標示に、御神幸の折の稚児のかつぎ物に、あるいは神事相撲の優勝者の表彰などに用いられる。このものが本来はミテグラとして神霊の憑依体であったのであるからこれらの機能はごく当然のことである。ボンデンという語は恐らくホデから来ており、ホデは目立つものの義であり、東北で薪・草などの採取にあたり占有標の棒をいい、関東で小神の座をワラホウデンというのもそれである。神名に大宝天王というのが全国的にあるが、幣を神体としてあがめたことによるものであろう。」
また、戦前の昭和15年から16年にかけて秋田県南秋田郡を中心に取材した記録である、柳田国男著『雪国の民俗』には、「ボンデンは紙垂のことで神の依代すなわち神の象徴である。この神を一致団結して他から侵されるようにお守りして、神前に奉納するのである。」と記されており、行事の内容が端的に述べられている。
2 角間川の梵天
現在の角間川の梵天は、近年は2本あがるのが通例となっている(梵天を巡行・奉納することを、ぼんでんをあげる、という)。一つは、大曲南中学校角間川地区の同期生と角間川在住の、それぞれ42歳の歳祝いを迎える男衆によって組織された年代会によって、厄祓い祈願の梵天として作製・町内巡行・奉納される。もう一つは、角間川の社会人野球チームの角間川ブレーブスによってあげられる。ブレーブスの梵天は、奉納の際42歳の梵天の受け手となるため、毎年あげ続けられている。
42歳厄祓い祈願の梵天は、年代会により数日かけて町内を巡行した後、愛宕神社へ奉納される。奉納は、愛宕神社の梵天祭の日(1月第4日曜日)に行なわれる。
なお、藤木地区も角間川と同様、大曲南中学校藤木地区の42歳になる同期生の男衆によって梵天があげられ、藤木の八幡神社へ奉納される。奉納日は2月1日である。
3 角間川の梵天の歴史
いつの頃から角間川で行なわれているのか現在も調査中であるが、行事としては、県内各地に残る梵天行事を同じく、年の始めに五穀豊穣、産業発展、心身健康を祈願し、町内をめぐる回り梵天行事である。
角間川でも、昔は近郷の各集落や町内単位で旧正月24日に梵天をあげていた。しかし、1970年後半頃から次第に、人手不足等により集落単位であげられなくなる状況となっていたため、1980年頃から、角間川全体の厄年を迎える42歳の男衆が集まって梵天をあげることとなった。
以来、角間川では42歳厄祓い祈願梵天があげ続けられている。無事に42歳の歳祝いを迎えることができたことに対する地域への感謝と今後のご恩返しを誓いながら、町内の厄を祓い、町全体の五穀豊穣、商売繁盛、町民の心身健康を祈願する梵天をあげることは、角間川に縁のある42歳の男が務めあげなくてはならない役目となっている。なお、42歳を迎える男衆のみで梵天をあげるのは県内でも特殊で、ここ大曲地域の梵天の特徴である。
4 角間川の諏訪神社と梵天
余談であるが、角間川の諏訪神社のご祭神の中には、建御名方大神、天照大御神と並んで、三吉大神がいる。『大曲市の歴史散歩』には、「もとは、秋田太平山三吉神社の信者が講中となり、勧請した三吉神社が、現在の角間川諏訪神社の場所にあったという。角間川の諏訪神社は、この三吉神社と合併する形で現在地に移ってきたものである。」と記されている。秋田の太平山三吉神社は、毎年にぎやかにぼんでん祭りが開催されている。三吉さんへの信仰は、五穀豊穣を祈願する中で、田畑の耕作に欠かせない心身堅固な男衆に恵まれたいという民衆の切実な願いがあったものと思われるが、三吉大神が合祀される諏訪神社がある角間川で、今も梵天の行事が受け継がれているのは、偶然ではあるが少し面白いことである。
5 角間川の42歳厄祓い行事
(1)厄祓い祈願梵天
角間川の厄祓い祈願梵天の準備は、前年の夏頃から本格的に始まる。年代会の組織から始まり、梵天、恵比寿俵、打ち板などの作製、神事や町内の商店への各種手配まで、行なわねばならないことが多くある。この準備期間中に、小中学校のときの同期生があらためて集まり、酒を酌み交わし親睦を深めつつ準備をしていくことで、お互い生涯の友人としての絆を再確認できることが、この梵天行事のもう一つの意義である。また、先輩から教えられ、後輩へ引き継ぐことで、前後の年代との関係も深まる。梵天行事には、地域に住む者たちの絆を深め合うという素晴らしい一面もある。
梵天行事の始まりは、梵天への芯入れ式である。巡行初日の早朝、梵天への芯入れの神事を執り行ない、梵天披露巡行へ出発する。町内の各家に訪問巡行する際は、整列し口上を述べた後、ぼんでん唄を1~2曲披露する。
奉納の際は、ぼんでん唄のなかでも「納めの唄」という特別な唄を唄った後に、愛宕神社へ奉納する。この奉納のときは、梵天を横倒しにして、奉納者全員で社殿へ梵天を押し込むため、社殿入り口で待ち構える愛宕町年番やブレーブス、先輩年代会の受け手と揉み合いになる。「オイサ、オイサ」の掛け声が境内に響き渡り、非常に見ごたえある一場面となる。最初の2回は受け手たちによって防がれ、3回目の突入で奉納させるのが慣例となっている。奉納後は、奉納した者たちによって盛大に餅まきが行なわれる。
(2)深夜の寺社詣で
角間川では、梵天奉納後の2月1日に日付が変わったばかりの深夜0時から、厄年の男女が町内の神社やお寺、お地蔵さんなどにお参りをする風習が残る。お参りの際は、紅白二段重ねの饅頭をお供えするのが慣例となっている。
これは、小正月1月15日からみて、2月1日が初朔日(はつついたち・朔日とは月の最初という意味)であることから、この正月後初めての1日を「重ねの正月」として、厄年の人たちが「年重ねの祝い」を行ない、正月を2回迎えて年齢を早く進めてしまう気になることによって、厄難を逃れようとする風習が下地になっているようである。
角間川では、昔は町内の神社、お寺、お地蔵さんを十数か所回ることが普通であったらしい。これは、厄に見立てた饅頭を数多くお供えすることによって、なるべく多くの厄を落とそうとしたものと思われる。角間川の神社では、1月31日の夜から年番が付き、大晦日と同じように神社を開けて参拝者を迎える。
(3)厄祓い神事
この2月1日の日中には、諏訪神社において、あらためて33歳女性と42歳男性の合同厄祓い神事が執り行われる。これは42歳の厄年の男衆が段取りをして行なう。このときは、諏訪神社の奥殿にてお祓いを受ける。角間川諏訪神社ならではの慣習である。
これら一連の行事も少子化の影響により、今後は担い手不足が予想される。是非とも後世に伝えたい素晴らしい風習であるため、年代会を補佐するような役割を担いつつ文化保存をしていくような、何らかの取組みが必要になる時期が迫ってきていると思われる。
(本文中に使用した写真は、角間川昭和51年会様よりご提供頂きました。ありがとうございました。)
角間川の梵天データ
奉納場所:大仙市角間川町愛宕44 愛宕神社
奉 納 日:毎年1月第4日曜日 (奉納は例年午後3時半頃から)
梵天巡行:42歳厄祓い梵天は愛宕神社の例祭に合わせ、金・土・日の3日間程度巡行
ブレーブスは愛宕神社例祭の日の1日
奉納団体:42歳を迎える角間川に縁のある男衆で構成される年代会、角間川ブレーブス
参考文献
大曲市昔を語る会連絡協議会(編)『大曲市の歴史散歩』(大曲市、1977年)
柳田国男『雪国の民俗』(第一法規出版、1977年)
柳田国男監修『民俗学辞典』(東京堂出版、1951年)
木崎和廣他『写真資料 秋田の民俗』(無明舎出版、1992年)
飯塚喜市『秋田「祭り」考』(無明舎出版、2008年)
田口昌樹『「菅江真澄」読本5』(無明舎出版、2002年)