1782年(天明2年) 肝煎中嶋屋堀江八郎右衛門が自然港を改築
→肝煎屋敷続きで船調役所、見廻り役所、肝煎役所、伝馬所、波止場延長120間、土蔵20棟、船修理所を整備(平野広吉「角間川河港の形成と地主」『大曲市郷土史資料第13集』)
1801年(享和元年) 湯沢屋、港の荷揚場整備を藩の補助を受けて行う。
→銭700貫を投じ波止場の新設、浜倉の修築行なう(島森道義氏が荒川新右衛門氏より伝聞、また角間川小学校百周年記念誌6頁にも記載あり)注記として「享和元年角間川村に荷上場所被仰付候、館の下普請料御上より銀七百貫目被下候」とあり、藩の政策により荷揚場整備が行なわれたことになる。(島森道義遺稿『角間川郷土史談再録』)
ところが、平野広吉『角間川肝煎年代表』には湯沢屋六右衛門の記録はない。湯沢屋六右衛門には剣の達人で神影流の免許を持ち決闘で非業の死を遂げたとの伝承もある。(角間川小学校百周年記念誌『文武不岐』)中嶋屋と同人物なる説をどう考えるか。
1815年(文化12年)湯沢屋六右衛門、角間川港の整備をする
→斎藤實則『湯沢叢書7雄物川流域の集落と住民の生活』建設省湯沢工事事務所、1997、39頁
巻末の主要参考文献にそれらしき出典が見当たらず確認中。
→資料によって名称が変わる(郷校、青松館、講学館、伝習学校)。同一の存在なのか別物なのか。
1854年(安政元年) 内町に郷校建つ(角間川村をつくった人々)
1860年(文久1年) 私塾青松館設置(平野広吉角間川郷土史資料)
1861年(文久2年) 本町金四郎家事により青松館被災全焼(角間川郷土史資料)
1862年(文久3年) 青松館再建(角間川郷土史資料による)
1869年(明治2年) 青松館を講学館と改称。本町官舎を改造移転(明徳館より独立したものと推定される)(角間川郷土史資料)
1872年(明治5年) 外町有志により共同の講学所青松館が新築される(文武不岐)
1872または1873年頃 青松館が郷校と合併し伝習学校と称する(島森道義遺稿より)
1874年(明治7年) 小中島(今の本町)漢学塾(講学所青松館)を小中島学校と改称し創立、
教師2名、児童90名(小中島学校の場所は不明)(文武不岐)