- 1782年(天明2年)
- 1783年(天明3年)
- 1786年(天明6年)
- 1793年(寛政4年)
- 1795年(寛政6年)
- 1798年(寛政10年)
- 1801年(享和元年)
- 1802年(享和2年)
- 1807年(文化4年)
- 1809年(文化6年)
- 1811年(文化8年)
- 1815年(文化12年)
- 1822年(文政5年)
- 1833年(天保3年)
- 1835年(天保6年)
- 1836年(天保7年)
- 1841年(天保12年)
- 1849年(嘉永2年)
- 1853年(嘉永6年)
- 1854年(安政元年)
- 1859年(安政6年)
- 1861年(文久2年)
- 1862年(文久3年)
- 肝煎中嶋屋堀江八郎右衛門が自然港を改築。
- 大凶作。
- 藩への献策『東堤上書』提出。
- 角間川警護の大沢口関所を番所と改称する。
- この頃から守拙亭(落合東堤私塾)を開く。
- 落合東堤、長旅に出る(5ヶ月間)角間川→山形→新潟→長野→名古屋→桑名
→津→伊勢→奈良→京都→大阪→江戸→水戸→日光
→白河→仙台→松島→角間川。 - 湯沢屋、港の荷揚場整備を藩の補助を受けて行う。鳥海山噴火。
- 内川が氾濫し、洪水で新町全滅する。
- 荒川家二代目勘助没。
- 荒川勘助三回忌法要をもって七面山大明神勧請のため石碑を建立。
- 関口兼三生まれる。
この頃、黒丸五郎兵衛が肝煎となる。
この頃、大友玄圭けだにの研究をする。 - 湯沢屋六右衛門、角間川港の整備をする。
- 黒丸家七代目惟孝(俳人で六川と号す)旭塚に石碑建立し供養する。
- 大飢饉。
- 新目五郎助が感恩講をつくる。
- 町の肝煎に提出された歳入財源記録によると、町内に地主として名を連ねる者25名あり。
財力合計は酒田の本間家に匹敵するほど。 - 落合文六(東堤)没。(93歳、八幡神社祭日)
- 浄蓮寺、長応寺再建復元する。
男鹿門前に黒船来航。 - 浦賀沖にペリーの黒船来航。
- 内町に郷校建つ。(島森道義遺稿より)
(1860年文久1年に私塾青松館設置という説もあり)
黒丸惟清(九代目)海岸防備のため新屋へ移住を命ぜられる。 - 男鹿門前にオロシャ軍船寄港。
- 本町金四郎家事により郷校(青松館)被災全焼。
- 関口兼三、領外追放。(理由・後年ともに不明)
→明治4年土崎にて没。正善寺に埋葬。享年61歳。
臨終の言「有志無時嗚呼命哉」(高橋尚(編)1993、角間川尋常高等小学校著『郷土史年表』
郷校(青松館)再建。
本郷、北島、荒川、最上など地主が藩に多額の献金を行う。